コンピュータ将棋を前に慰められるプロ棋士

 昨今コンピュータ将棋がとても強くなった。具体的にはもう羽生さんがやっても勝てない、と断言する識者やファンもいる。
 そんな中でプロ棋士観戦記者を含めた将棋関係者の発言に対して私が持った違和感を書き出したい。

人間同士の戦いにしかない良さがある

 ミスがあるから面白い。そこに至るドラマが面白い。
 もちろんこの意見を否定はしないし、むしろそこがプロ棋士同士の戦いの醍醐味とも言える。コンピュータ将棋がどれだけ発展しようとも、そこに今のプロ棋士に対する以上にお金を出そうという人間は現れないだろう。
 がしかし、こういう意見がプロ棋士やその関係者の中から聞こえてくるのは違和感が残る。

 今までは「プロ棋士は将棋の真理を追求している」「プロ同士では一手のミスが命取り」などと言ってきたにもかかわらず、滅多に(特に終盤において)ミスをしない存在が現れた途端に、「ミス」や「人間ドラマ」といったものにプロ棋士アイデンティティを求めてしまうのはなにか違う気がするのは私だけだろうか。

大局観に胡座をかくな

 人間には大局観がある。優れた大局観があるから良い手悪い手を見ぬくことができる。しかし大局観とはいったいなんだろうか。
 大局観というものは本来「読みを省略できる」から偉大なのであって、将棋の本質は「手を読むこと」にあるのではないか。
 コンピュータ将棋と人間の差異を強調するあまりに、大局観や感覚というものに胡座をかきすぎているのではないだろうか。

さらなる技術の発展を

 今プロ棋士は挑戦者コーナーに立たされている。それは仕方のないことなのかもしれない。
 それでも私はプロ棋士を信じたい。一発かましてやってほしい。